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2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


【明倫artレビュー】セレノグラフィカ『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』


セレノグラフィカ『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』
2009年3月14・15日 毎日新聞社京都支局7階ホール

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2009年5月号に掲載されたものです(INDEXはこちら





つかみどころのなさから生まれること

土曜日の昼下がり、東山の山並みを借景に、ひとときダンスに身をゆだねる。セレノグラフィカによる『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』を観た。肩ひじ張らないやわらかな雰囲気が魅力的な公演だった。

京都御所のほど近く、毎日新聞社京都支局の上階にある小さなホールが会場となった。舞台ファンにはアートコンプレックス1928が入っている旧支局が有名だろう。ニクいことに現支局にも、いかにも見覚えのあるようなアーチ状の天井を頂くホールが設けられている。東山を望む一面がガラス張りという開放的なスペースだ。客席が周りを取り囲み、落語の高座のような小さな舞台がポツンと置かれている。そして、バスローブ姿で出てきた隅地茉歩がその舞台に腰掛けて・・・。

先ほど書いた作品タイトルは、それぞれ「ひゃくねずみ」、「つくもかみ」、「ももいちみ」と読む。それら、ひとつひとつの短編作が「毎日がダンス!」というフレーズのもとに集ったのが今回の公演だ。なにか特別な舞台装置や演出があるわけではない。分かりやすいストーリーがあるわけでもない。はっきりと、つかみどころはない、と言える舞台。しかしそのつかみどころのなさこそが、非日常のスペクタクルではない、私たちの日常と地続きにあるダンスとしてとてもしっくりくる。

さて、小さな舞台に腰掛けた隅地はといえば、おもむろにバスローブを脱ぎ捨てて、なんと水着姿。これはつかみようがない。正直目のやり場にも困る。追って出てきた阿比留修一は、こちらは鮮やかなニッカボッカ姿で新聞を読んでいる。毎日新聞かと思ったらそうでもない。これもつかめない。飄々と、そんなふうにして、綴られる時間。

つかめないものをつかもうとする時、人はなんとかそれをつかもうと、またはそれがすり抜けてゆく感覚に身をゆだねようと、あれこれ工夫を凝らそうとする。どのような形でそれをつかむか、すり抜けさせるかは、人それぞれだ。

向こう側に座った観客の反応を見ているととても面白い。必死に笑いをこらえようとするもの。こらえきれず吹き出しているもの。あくまで真面目に鑑賞するもの。ポカンと口を開けて見ているもの。転換時には、わざわざ観客席の席替えが行われた。色々な人の反応を目撃できるようにというたくらみではなかったか。

彼らのダンスを観る観客は、決して目の前の出来事に対して一様に踊らされてはいない。100人いたら100通りの解釈(ダンス)が生まれる。そうした可能性を限りなくひらいてゆくことから「毎日がダンス!」と言える世界が立ち現れてくるのだ。