▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


一番強いフィジカリティは言語ですってよ、ダンサーの皆さん?

ちょうど上記の、ポかリン記憶舎のレビューで書いていたことに関連して最近「ふむふむー」と思ったことがあったので取り上げよう。

時折挟まる、無言で舞うようなシーンでは、少しばかし動きのクオリティに物足りなさはあったけど。。あれらのシーンでは下手に動きだけを振り付けすぎないほうがいいと思った。ほんとに動きだけで見せられるほどでは全然ないので。そこはやはりダンサーとは違う。セリフをしゃべってこそ、そこに見ごたえある身体なり空間なりが現れるわけで。最近ちょくちょく演劇寄りの舞台も見るようになって、そんなことを思ったりしました。
http://d.hatena.ne.jp/cannon26/20060730#p1

このように書いていた。実際に、この頃だったか、私は演劇寄りの舞台(ク・ナウカ鈴木忠志や能・狂言やミュージカルやシャンソンなど)を観ては「やっぱ声だね、声!声にこそ宿るよ!!」と色めきたっていたのであるが、まあそれはさておき(最近はその興味が“言語の音”と“楽器の音”という、音そのものに移ってる)、、

ロンドンで発行されている日本人向けフリーペーパーに載っていた伊川東吾という役者へのインタビューに下記のようにあった。劇団黒テントロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでの活動を経て、現在は多くの映画(「ラストサムライ」や「さゆり」など)に出演する傍ら自身の小劇団をロンドンで主宰する氏の、作品選びの基準として、

そしてもう一つ、重要なポイントが「フィジカリティ」だった。「流れは変わりつつあるけども、アジアの演劇の多くは伝統的にフィジカルな演劇です。日常生活では、アジア人より西洋人の方が動きが積極的なのに、舞台上だとアジア人の方がよく動く。面白いですよね。今はそんなことはないけれど、ちょっと前までイギリス演劇なんて演じるのは首から上、っていう感じだった。それが60〜70年代になってイギリスでもフィジカルが重視されるようになって。80年代には花咲いた。でもそこから反動がきたんです」。フィジカル面ばかりが重視された「最悪な時期」があったのだという。「劇的な深みがなく、舞踏のような肉体的な深みもない」。そしてその時に「一番強いフィジカリティというのは、言語なんじゃないか」と感じたのだという。そしてここから言葉というものを振り返る作業が始まった。「言葉で動いてみよう、と芝居を見直し始めたんです」。
※英国ニュースダイジェスト(1118号) p18 より

なるほどー。「(役者は)セリフをしゃべってこそ、そこに見ごたえある身体なり空間なりが現れるわけで」という感想はけっこういい線いってたのだなあ・・・よっしゃよっしゃ。

ということで最終的に何が言いたいのかというと、やっぱしダンサーにはとことん“動き”で勝負してもらいたい!!という事(結局そこかい)。 はぁ?言語がフィジカリティ一番強いだぁ?何を寝ぼけたことを言っているのだね??っていうようなダンスが観たくてたまらん今日この頃。(書き込み日の時系列は前後しますがこの数日後に観たシェン・ウェイ・ダンスアーツがとことんムーヴメントで勝負していて感動しました)

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