▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


ウェブメディアと批評のこと

著名ブロガーによるWEB2.0な批評の批評。ささやかに盛り上がっているので乗る。

はるか以前から「いま批評は可能か」「批評は死んだか」みたいな議論が飽きずに反復されてきたけれど(本誌も何年か前にやってましたが)、このたびはウェブ2・0と呼ばれる“一億総批評家”世界が現出したことで「死」のヴァージョンがちょっと上がったわけですね。
おまえにハートブレイク☆オーバードライブ:栗原裕一郎 より

ミュージックマガジン誌に掲載されたもの。コメントについてる“集合知はライブだから”という話が面白い。やっぱりウェブは、どうしようもなくフローなメディア、ということ?フロー/ストックなメディアの話は、たしか鈴木謙介のブログから火がついて論争が盛り上がっていて(※05年初頭)、すごく興味深く見ていたのですが・・・、今探してみたら鈴木謙介のブログ自体が消滅してる・・・。やっぱりフロー。。。

ネットにおいては2.0がどうとかいって批評の死と銘打たれる以前に、批評が生まれてもいなかったのではないかという眩暈のような錯覚を覚えるのである。
切込隊長BLOG(ブログ):山本一郎 より

ずっとフローなメディアだったとしたら、大文字の「批評」は生まれてないだろうなあ。2.0時代においても、例えば、CGMにしても徹底的にフローじゃないとビジネスにならない。あ、ウィキペディアみたいなあり方は一方でありますけどね。というか、そもそもWEB2.0で期待されるところの集合知って、「知識」とか「知恵」を対象にするものでしょう。「批評」をそこに混ぜてるのがおかしい。ただ、ソーシャルタギングのような表現手法が批評性を持ちえるかどうかといえば、まあまだ可能性はあると思う。

私はむしろ「批評家の不在」が「批評家の待望」に変わるんじゃないかな〜近いうちにとか思います。いまこそ、力の強い批評が必要だと思うんだよね。それは批評というかたちをなしていなくてもいいんだよ。言葉が力を取り戻してる。そんな時期なんじゃないかな〜というのは私の淡い希望です。
日日ノ日キ:吉田アミ より

“批評性を持った○○”と“ザ・批評”とのガチンコ勝負みたいなことがあれば、弱体化した“ザ・批評”を甦らせることになるのかも、と少し思った。ちなみに私が最近、「これはすごい批評(的仕事)だなあ」とつくづく思うのは、SPA!の「グラビアン魂」。みうらじゅんリリー・フランキーがグラビアについて好き勝手語ってるだけなんですがね。あれはすごい。グラビアン魂オムにはぶったまげた。