▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


Noism 08『Nameless Hands 〜 人形の家』(その2)

その1 : http://d.hatena.ne.jp/cannon26/20080719#p1


先日は、作品のことに触れるまでにずいぶん長文になってしまったので改めて。りゅーとぴあレジデンシャルダンスカンパニーNoism、2008年の新作はパンフの表紙に「Physical Theater」と銘打たれているように、極めて演劇的な作品だった。しかし、(前作『PLAY 2 PLAY』のように)ダンスが小芝居の道具に成りさがってしまうようなものではなく、がっつりダンスに捧げられた舞台でありました。

まず冒頭、見世物小屋の支配人(宮河愛一郎)による「今宵全ては身体の遠吠えにあり!」という宣言で始まる。舞台はダンサー演じる人形達と、それを操る黒子達、そして人形と人間のあいだをさまようみゆきという名の一人の女(高原伸子)の物語。操り操られといった悲喜こもごもが描かれる。失笑すれすれの喜劇的演出などもあり、「幼くてイタい」と思う人も、まあいるだろうなといった所。また、音楽は聴き覚えのある定番曲をフルに使い、この劇世界を盛り上げるのに一役買っている。ちなみに人形達は白塗り。

代表作である『NINA 物質化する生け贄』を思いっきり世俗化したような内容に、賛否巻き起こるのは必然か。しかも、金森自身が語っているように、とても多くのオマージュ、引用によって成り立った作品になっていた。終盤などは、金森の師であり、昨年世を去ったモーリス・ベジャールへ捧げられた壮絶なまでの「春の祭典」だった。オハッド・ナハリンの「アナフェイズ」からの引用だと思われるシーンも格好よかった。そのほか、ピナ・バウシュ、イリ・キリアンあたりも含まれていたのではなかろうか(僕はあまり分からなかったが)。

そんな中で、もっとも多くの呼応を含んでいたのではないかと思ったのが、大植真太郎の振付作『solo,solo』だった。外部振付家招聘企画として06年にNoism自身によって上演された作品である。人形というテーマや、高原伸子の役どころなどに共通点が見られた。だがこれは、先の巨匠達からの引用とは違うレベルで、大植と金森の同時代作家としての通低した問題意識という事だと思う。ともに若くから海外を拠点に活動しており、そこからの目線で日本を眺めたときの違和が作品のベースにある。

特に、コマーシャリズムを崇拝するメディアの力は思いのほか影響が大きい。スウェーデンから日本を眺める大植の目には、そこにある歪みが明確に見えているのかもしれない。唐突に出てきたアイドル歌手は、その象徴だろうか。何処かの誰かの手の内で操られることの、やりきれない絶望感。平原慎太郎の最後の叫びは、そのような状況に安穏とする日本への警鐘なのかもしれない。
大植真太郎『solo,solo』より

大植の『solo,solo』では高原伸子はアイドル歌手に扮しマイクを前に歌ったが、今作では中島みゆき「時代」を歌った。操られる存在から脱したかに見えるが、しかしすぐさま人形へと回収されてしまう。歌っている高原はその場で黒子達によって白塗りに塗り込められる。主体的に動いているのか、ただ操られているだけなのか。そしてさらに高原はこの後、黒子の側へもスライドしてゆく。知らず知らずのうちに操る側へと転じてしまう怖さ。そして、この先の展開はとても残酷である。でもそれは日々起こっている現実そのままだ。

ひとりの女(井関佐和子)が大勢の黒子達に取り囲まれる。彼女は、高原の鏡像関係として存在していた人形だったが、代わって人間となり逃走していた。が、しかし、気付いたときには取り巻くすべてが黒子となってしまっている。逃げることもできず、黒子達に囲まれ視線を浴びせられる。恐怖に震える身体は、だんだんと狂気を帯びてゆく。そして「春の祭典」が鳴り響くなか、女は黒子達の生け贄として踊り狂う。興奮した黒子達に衣服すら剥ぎ取られ、裸にされた女はそれでも踊ることをやめない。天から血しぶきが降り注ぐ。真っ赤に染まってゆく身体。それでも踊りは続く。

この凄まじいパワーは、舞踊にしか到達し得ない境地だと思う。渾沌とした世界が、ひとつの身体に渾然一体となって宿ってゆく。そのあまりの密度に見る者は打ちのめされる。身体というメディアを使う舞踊なる芸術芸能が、他のメディアコンテンツと一線を画するのはこの圧倒的な密度にあると思った。身体という器がいかに世界を飲み込んで放射するか。近代以降のメディアのように、単純化された情報を画一的に垂れ流す事はできない。渾沌を渾沌のままに、複雑さを複雑さのままに飲み込むこと。世界はそんなに単純じゃない(とは森達也の言葉だが)、ということをそのまま表出すること。まるで命を削るような、自己犠牲の上に立つ踊り。舞踊の根源。・・・もはや、畏怖の眼差しになってしまう。讃える言葉も見つかりません。もっと多くの人に見て欲しいとただ思う。