▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


タイムリー?なので例の批評WSの応募用に書いた文章を公開しよう

白ブリーフの奥にあるもの (大植真太郎『solo,solo』について)


表面上だけを見れば、おかしく笑いを誘うが、その奥に何か不気味でグロテスクなものが潜んでいる。このような表現を突きつけてくるアーティストがたまにいる。窓を開いて中を覗き込むほどの勇気を持ち得ない私は、うっすらと浮かびあがるそれに、ただ引きつった笑いを浮かべ、ごくたまに、隙間からはみ出て見えるそれに戦慄する。

Noism06の外部振付家招聘企画『TRIPLE VISION』に大植真太郎が用意した『solo,solo』はまさにそのような作品だった。大きくて不恰好な人形をもてあそび、はしゃぎまわるダンサー達。偶像を担ぎ上げて狂喜乱舞する、どこか知らない土地のお祭のようでもある。また、言葉遊び的なセリフを多用し、客席からは笑い声があがる。しかし、その内容のないユルいやり取りは、逆に狂気じみた怖さを感じさせる。

やがて人形は分解され、一枚の大きな布となる。舞台上にこんもりと盛り上がった布の中からは、今度は生きた人形が這い出てくる。全身に布を纏わされミイラのようになった平原慎太郎だ。高原伸子演ずるアイドル歌手(まさしく現代に生ける偶像だ)との愉快なやりとりを経て、平原は纏った布を脱ぎさり白ブリーフ1枚で自らマイクへ向かう。しかし、そこでも彼はただ操られる存在でしかなかった。すべての行動は、何処かの誰かの手の内にある。やりきれない絶望感を含んだ平原の叫び声が天を貫き、この作品は終わる。

しかし、こうして書くと、何かとんでもなく不穏で重たい作品のようだ。実際はその逆で、冒頭で述べたように表面上はコミカルで楽しい作品である。インターネット上に流れている観客の感想を読んでも、ほとんどはその「笑い」の部分に反応している。だが、一部の観客はそこにある種の気持ち悪さや、得も言われぬ不快感を抱いている。もちろん、どちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。

得てして、「笑い」を伴う表現には、その裏側に、この世界の暗部や人々のコンプレックスが隠れているものだ。知らず大笑いしていることも多いかもしれない。だが中には、その裏側に潜んだものが見えてしまう人もいる。それだけのことだ。

ところで、このように表面上は笑いを誘うが、その奥に不気味でグロテスクなものが潜む、というような表現を行う作家に共通する象徴的なアイテムに、はたと思い当たった。そう、白ブリーフだ。

例えば、ウラナチ(主宰:岸昆虫)という関西で活動する若手ダンスカンパニーがある。彼らの作品でも、観客は笑う。だがその舞台上は、独特の危うさ、グロテスクさを孕んでいて目が離せない。彼らが『ウキウキペディア』(’06)で見せた白ブリーフ姿が思い起こされる。また、「笑い」といえばお笑い芸人を忘れるわけにはいかない。白ブリーフ姿の松本人志に笑わされる時、その奥に、ある種のグロテスクさを感じた事はないだろうか。

では、大の大人が白ブリーフで突っ立っている事が喚起するイメージとはどのようなものだろう。未成熟?間抜けさ?抑圧?ほとんど、白ブリーフ差別だ。しかし、そのような社会的、文化的な共通認識が存在するからこそ、白ブリーフは彼らの作品の中に現れる。また逆に、「男は黙って白ブリーフ。」というように、文化や慣習の違う場所へ行くと事態は変わってくる。つまり、ことほどさように、私たちの行動や考え方というのは、文化や社会などの大きな目に見えない力によって、規定され、操られているということだ。

特に、コマーシャリズムを崇拝するメディアの力は思いのほか影響が大きい。スウェーデンから日本を眺める大植の目には、そこにある歪みが明確に見えているのかもしれない。唐突に出てきたアイドル歌手は、その象徴だろうか。何処かの誰かの手の内で操られることの、やりきれない絶望感。平原慎太郎の最後の叫びは、そのような状況に安穏とする日本への警鐘なのかもしれない。「ひとり、ひとり」と連呼する作品タイトルが、重い。そろそろ気付けよ、と言われているようだ。

白ブリーフにこだわったためどっちらけな文章になってるような気もするが、最後のまとめはけっこういい所を突いたように思う。ラスト2文は秀逸。(自分で言うか)

この文章をあるあるに踊らされた人々に捧げる。