▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


レポート公開

パソコンの中を探ってみると、おお出てきた。僕が小林先生の講義を受けて出したレポート。レポートというほどのものじゃないけど。。他学部の講義で、卒業単位にはまったく関係ないので好き勝手書いて出したのだった。もう4、5年は前の文章。今、このブログで書いてるのとさして変わらんのがなんとも・・・(ある意味、原点)。まだこの頃は、ナマの舞台もほとんど観にいってない頃です(観始めたぐらい)。

勅使川原三郎について

『NOIJECT』について授業で話を聞いた。それが「NOISE」プラス「OBJECT」と説明された時すぐにF1マシンを思い浮かべた。それは、ただ僕がF1マニアという事もあるのですが、映像を見たら床にホイールが転がっていたりして、やはりそうした自動車のイメージから創作したダンスなのかなと思った。

腕がそのまま渦を巻いていってしまうようなグネグネした動きがあったが、あれはレーシングカーが走るときに、リアウィングの後方にできる渦状の乱気流の流れ方にそっくりだった。(風洞実験する時に見える)

勅使川原三郎に関する文章を読んでいたら、まわりの空気に意識がいくというような事がよく書かれている。たしかに、そうしたものを感じました。まわりの空気を意識させられたのはナマでF1を見たとき以来です。でも、その空気の見え方はまったく違うものでした。F1で感じるのは、ダウンフォースとして車体を地面に押しつけている空気で、それはただ「重たさ」しか感じないが、勅使川原のダンスは先生が言っておられた(たぶん)ように「重い軽さ」という感じだった。また、「溶け合う」という表現もF1からは出てこないものです。

「その身体は、周囲の空間を切り開いたり、それを支配したりするのではなく、ありていのことばを使えば、空気と戯れている、あるいは空気との緊張関係に身を置いている、と云うことができます。」(『臨床する芸術学』p87)

これを読めば、たしかに前者(周囲の空間を切り開いたり、それを支配したり)がF1という事になるだろうから、そこに感じられる空気の質が異なったものになるのは当然だったと思う。

参考文献 小林昌廣『臨床する芸術学』昭和堂1999

※単位の申請はしていません ○○○○

こうして先生の著作から引用して提出するのな。

臨床する芸術学

臨床する芸術学

もとは大学の通信教育部用の「芸術学基礎」のテキストとして書かれたものなので、いろんな芸術分野を網羅しているのはもちろん、批評の問題などまで、盛りだくさん。表紙が大野一雄なだけあって、ダンスにもたくさんふれてます。