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2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


【明倫artレビュー】アトリエ・エルスール フラメンコ公演『ututu 2010』(客演:伊藤キム)


アトリエ・エルスール フラメンコ公演『ututu 2010』
2010年10月26日 サンケイホールブリーゼ

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年12月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








歌い踊る民の奥底

コンテンポラリーダンス伊藤キムが客演したことでも大きな話題となったフラメンコ公演『ututu 2008』が、2010年バージョン『ututu 2010』として大阪で再演された。

いきおい、「フラメンコとコンテンポラリーダンスの刺激的な融合」というように捉えられてしまうかもしれないが、実際の舞台はそうしたジャンル分けなどはひとまず差し置いて、なによりもこの舞台を構成・演出した野村眞里子の美しく、潔い舞台空間に魅了された。

この作品のテーマである「うつつ」とは、もともとは「現実」という意味の言葉だが、「夢うつつ」などの用法を通して、「夢とも現実ともはっきりしない状態」という意味としても使われる。

伊藤キムが醸しだす妖艶な気配と、詩人野村喜和夫の幻想的な言葉が、熱のこもったフラメンコに対して、そしらぬ顔でもって挑発をする。丁々発止の闘いではなく、そのクールな距離感がこの作品に不思議な浮遊感をもたらす。

公演の冒頭と最後は、野村眞里子と伊藤の2人だけによる舞台だ。激しく地を踏み鳴らし、自らの身体を誇示するかのような野村のフラメンコに対して、伊藤は自らの身体をどこか所在なげに、空間の隙間を縫うように彷徨わせる。対照的な2つの舞踊空間は、公演タイトルのとおり夢と現実が共存するひとときのようである。

そしてまた私はそこに、フラメンコという芸能をあわせ鏡を通して見るような、不思議な感覚を味わう。空間の隙間を縫う伊藤の所在なげな身体は、差別と迫害を逃れるために流浪を強いられた民族の悲哀と懊悩を映すように見えた。それは、フラメンコを生んだ「ヒターノ」と呼ばれる漂流民らの苦難の歴史だ。野村喜和夫が朗読する詩もそれに呼応するように、存在の不確かさを背負って漂流する者々が描かれる。

華やかで情熱的なリズムに心奪われるフラメンコには、一方でそのような苛烈な現実を奥底に秘めている。彼らは辛い現実を一瞬でも忘れるために歌い踊ったのだろうか。はたまた、現実に対抗する手段として歌い踊ったのだろうか。「うつつを抜かす」とは悪い意味合いで使われることが多い言葉だが、歌に踊りにうつつを抜かすことは苛烈な現実を生きるひとつの手段だった。フラメンコのような民族芸能が持つ圧倒的なパワーの由来がここにある。

この作品は、フラメンコの過去と現在を舞台上で幻のように出合わせる。上に記した伊藤の出演するシーンとあわせ、あいまにはOL風の演出で踊るフラメンコや、一方で伝統的なフラメンコのスタイルも披露された。カーテンコールでは、まさにスペインのバルのような熱狂に包まれた。この芸能の持つ強靭なパワーに圧倒された夜だった。