▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


【明倫artレビュー】the downhill


the downhill
2011年1月22-23日 精華小劇場

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2011年3月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








危険な遊び ー飛び降りて罠にかかる

シーソーの片側に水風船を置き、もう一方に思いっきり飛び乗る。高く跳ね上がり落ちてくる水風船をキャッチできれば大成功。…というような遊びを開発して皆ではしゃいでいた少年時代を思い出した。シーソーという遊具の遊び方としては完全に逸脱しているが、それはとても面白かった。

the downhillのパフォーマンスは、ダンスや演劇といった上演芸術の既存の枠組みを逸脱して、新しい価値を生み出そうとする。

その核には、まず何より「遊び」に興じる身体の魅力がある。「遊びをせんとや生まれけむ(中略)我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」と『梁塵秘抄』に収められた有名な一節にあるように(「遊ぶ子供を見ていると私の体も動いてしまう」と詠われている)、遊ぶ身体は観るものを揺さぶるのだ。

ここでもうひとつ、スノーボードやマウンテンバイクなどのアクションスポーツの世界における、従来型の競技ルールにアンチを唱え、より自由により過激に、創造性あふれるライディングを追い求めるフリーライドカルチャーの勃興(これも遊びの復権であった)を例に挙げてみる。

なぜならthe downhillのパフォーマンス、いや遊びは、本人らがどう思っているかはともかく、少しばかり危険性を伴う。そこでは、危険と対峙した身体が瞬間瞬間に放つリアリティに観客は釘付けになる。そして少しばかりの危険は、スリリングな即興性を舞台上にもたらす。

余談になるが、古英語において「遊び(plega)」と「危険(pleoh)」は起源を同じくする言葉だった。

さて、では一体彼らは舞台上で何をしているのか。

彼らは、コンパネや木箱を積み上げたり、長い棒を組み上げたりして、大きな構造物を作っている。それは、なんと人を捕らえる罠らしい。高いところにおびき寄せて、そこから飛び降りてしまうよう設計されている。飛び降りればもはや罠の餌食である。

5人程の男達が黙々と罠を組み上げていくと同時に、舞台上ではそうした罠の制作を芸術活動として取り組むに至ったひとりのメンバーの、ここに至るまでのドキュメントが語られ、合間に本人へのインタビューやダンスによるインタールードが挟み込まれる。

罠が組み上がると、皆でじゃんけんをして順番を決め、次々と飛び降りて罠にかかっていく。はっきり言ってかなりバカバカしい一幕だが、不思議なカタルシスに満ちている。

その「危険な遊び」は、安全圏に引っ込む周囲への反逆であるとともに、ある種の自然の摂理のように思えたのだ。小さな劇場の舞台と格闘するのではなく、大きな地球と遊ぶ身体がそこにあった。とてもみずみずしくて、強い身体のように思えた。

【明倫artレビュー】捩子ぴじん『モチベーション代行』

捩子ぴじん『モチベーション代行』
2010年11月15-16日 アトリエ劇研





※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2011年1月号に掲載されたものです(INDEXはこちら


踊らされないパンク・ドキュメント

モチベーションとは、人が行動するにあたっての、その元にある動機や意欲のことだ。例えば、人はなぜ服を着るのか。寒さをしのぎ、命を守るためであり、また、素っ裸で出歩いて犯罪者になってしまわないように、みな服を着る。…というようなことは、誰しも意識をすることなく行っているに違いない。

しかし、改めてそうしたものを意識してみること。また、意識せざるを得ない境遇に自らを置くこと。さらには、そうした意識の迷宮に彷徨う自分を場にさらすこと。捩子ぴじん『モチベーション代行』が浮かび上がらせる風景は、鋭い社会風刺でありながら、また、痛切な自己批評を含んだ、現代のドキュメントだ。

素っ裸で現れた男2人(捩子、井手実)は、まず互いの自己紹介をそれぞれ代行して行う。マイクを握り淡々としゃべる。アーティストとしての活動や、コンビニバイトで生計を立てていることなどが紹介される。

紹介を終えると、相手に対して指示を出し合う。マイクのケーブルを端によけるなどのタスクから始まり、果ては、フライドチキンの美味しさを地面を通して観客に伝える、などのタスクになる。

そこには、客席から突拍子もなく現れた捩子のバイト先の同僚ワダさんも加わる。奇妙な状況だ。あげくに傍らでは、ずっとチキンを揚げ続けるマシーン(コンビニにあるアレだ)。出来上がると、ウィーンと自動で油から上がってくる。次の冷凍チキンを放り込むというタスクだけは、誰からも指示されることなく終始繰り返している捩子の姿がなんとも滑稽だ。

印象的だったのは、捩子が井手に対して出した「ワダさんに分かるように、自らの作品のことを説明してください」というタスクだ。実験的な作風のあれこれを、懸命に説明するが一向に伝わらないさまは、この場に居合わせている観客なら誰しもが「あるある」と思わずにはいられないだろう。

なぜ作品をつくるのか。なぜ観客は作品を観るのか。観ない人はなぜ観ないのか。それは必要とされているのかいないのか。そこにあるモチベーションは何か。もしかしたら、そのモチベーションは偽物ではないか。本物のモチベーションはどこにあるのか。

浮かび上がってくるのは、自発と強制のあいだに宙吊りとなった、曖昧で不安定な私たちの身体の有様だ。それは第一に、踊る身体に対する実直な批評であり、と同時に現代社会を写すカリカチュアでもある。

あなたのその行動は、自ら踊っているか、それともただ踊らされているだけか。

この問いの秘めた過激さを、踊り手である捩子自身のセルフドキュメントを通して描き出す。そのパンクな精神にぶん殴られて目が覚める。畏るべき、かつ親しみの持てる作品だった。

【明倫artレビュー】アトリエ・エルスール フラメンコ公演『ututu 2010』(客演:伊藤キム)


アトリエ・エルスール フラメンコ公演『ututu 2010』
2010年10月26日 サンケイホールブリーゼ

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年12月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








歌い踊る民の奥底

コンテンポラリーダンス伊藤キムが客演したことでも大きな話題となったフラメンコ公演『ututu 2008』が、2010年バージョン『ututu 2010』として大阪で再演された。

いきおい、「フラメンコとコンテンポラリーダンスの刺激的な融合」というように捉えられてしまうかもしれないが、実際の舞台はそうしたジャンル分けなどはひとまず差し置いて、なによりもこの舞台を構成・演出した野村眞里子の美しく、潔い舞台空間に魅了された。

この作品のテーマである「うつつ」とは、もともとは「現実」という意味の言葉だが、「夢うつつ」などの用法を通して、「夢とも現実ともはっきりしない状態」という意味としても使われる。

伊藤キムが醸しだす妖艶な気配と、詩人野村喜和夫の幻想的な言葉が、熱のこもったフラメンコに対して、そしらぬ顔でもって挑発をする。丁々発止の闘いではなく、そのクールな距離感がこの作品に不思議な浮遊感をもたらす。

公演の冒頭と最後は、野村眞里子と伊藤の2人だけによる舞台だ。激しく地を踏み鳴らし、自らの身体を誇示するかのような野村のフラメンコに対して、伊藤は自らの身体をどこか所在なげに、空間の隙間を縫うように彷徨わせる。対照的な2つの舞踊空間は、公演タイトルのとおり夢と現実が共存するひとときのようである。

そしてまた私はそこに、フラメンコという芸能をあわせ鏡を通して見るような、不思議な感覚を味わう。空間の隙間を縫う伊藤の所在なげな身体は、差別と迫害を逃れるために流浪を強いられた民族の悲哀と懊悩を映すように見えた。それは、フラメンコを生んだ「ヒターノ」と呼ばれる漂流民らの苦難の歴史だ。野村喜和夫が朗読する詩もそれに呼応するように、存在の不確かさを背負って漂流する者々が描かれる。

華やかで情熱的なリズムに心奪われるフラメンコには、一方でそのような苛烈な現実を奥底に秘めている。彼らは辛い現実を一瞬でも忘れるために歌い踊ったのだろうか。はたまた、現実に対抗する手段として歌い踊ったのだろうか。「うつつを抜かす」とは悪い意味合いで使われることが多い言葉だが、歌に踊りにうつつを抜かすことは苛烈な現実を生きるひとつの手段だった。フラメンコのような民族芸能が持つ圧倒的なパワーの由来がここにある。

この作品は、フラメンコの過去と現在を舞台上で幻のように出合わせる。上に記した伊藤の出演するシーンとあわせ、あいまにはOL風の演出で踊るフラメンコや、一方で伝統的なフラメンコのスタイルも披露された。カーテンコールでは、まさにスペインのバルのような熱狂に包まれた。この芸能の持つ強靭なパワーに圧倒された夜だった。

【明倫artレビュー】「オトエホン−17」(黒子沙菜恵、木村英一ほか)


「オトエホン−17」
2010年5月27日 UrBANGUILD

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年7月号に掲載されたものです(INDEXはこちら







ライブの質感、セッションの誘惑

ダンスが観たいなら、アバンギルドのスケジュールはぬかりなくチェックすべきだ。木屋町通りの古ビルのなかに、身を潜めるように存在するそのライブスペースは今、京都だけでなく関西で最もダンスを観られるスポットと言ってもいい。月に3〜4本はダンスアーティストが関わるライブが開催されているだろう。

そこでは、京都を拠点とする舞台、音楽、美術などのアーティストが集い、混沌とした磁場が形成されている。秩序だった京都芸術センターとともに、車の両輪として京都のアーティストの地力を鍛える場となっていると感じる。

そうした場で、コンテンポラリーダンスの黒子沙菜恵、木村英一らが出演するイベントを観た。「オトエホン」と題されたイベントは、画家の足田メロウが主催するもので、すでに17回目を迎える。

今回は足田のライブペインティングとダンス、バイオリンによるセッションが2つ。最後に、オーバーヘッドプロジェクターを使った映像パフォーマンス(orologio)が行われた。

黒子の出演したセッションはバイオリンに宮嶋哉行、足田のペインティングは画用紙に描く絵をステージバックの壁に映写するものとなった。

たっぷりと水を含んだ水彩絵の具がじわりと輝き、滲み、乾いてゆく。バイオリンの音色は、時にねっとりと、時に刃のように空間を支配する。黒子の動きは、外に向けて開かれるのではなく、内向きに内向きに、なにかいびつさのようなものを抱き込むように現れる。

またもう一方は、木村のダンスに、イガキアキコのバイオリン、足田のペインティングは壁に掛けられたキャンバスに直接描くものとなった。

荒々しく飛び散る真っ黒い絵の具の線。何事もないようにステージ上で脚立を昇り降りする足田。クールな視線を投げかけながら、ギシギシと空間を歪ませるイガキのバイオリン。飄々として、どこかかろやかな木村のダンス。観客の子供が一緒になってステージ前で遊んでもいる。

ダンスを主とするような書き出しで始めた文章だが、ここではダンスの伴奏として音楽があるのではなく、また、ダンスの背景としてペイントがあるのではなく、こうしたすべての要素の中心に渦巻く「生(ライブ)」の質感が観客を誘惑する。

強くて柔軟なダンスでないとこの場では存在できない。他ジャンルの表現も同様だ。そして観客としては、おいしい料理やお酒を味わうかのごとく純粋にそのライブ空間に身をゆだねればよい。

そんな楽しさと刺激を改めて再認識させられたライブだった。

【明倫artレビュー】淡水『そこ、いいんですか。』

淡水『そこ、いいんですか。』
ダンスの時間 spring 2010 より
3月26−28日 ロクソドンタ・ブラック

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年5月号に掲載されたものです(INDEXはこちら







関係性のダンス、異分子が生むダイナミズム

そういえば、いわゆるゼロ年代が終わり、新たな10年が始まったのだった。こうした区切りにどれほどの意味があるのかと言われれば心許ないが、見渡してみれば、やはりひとつの時代が終わって、静かに次の時代が始まっているのかもしれない。

京都芸術センターが10周年。JCDNの「踊りに行くぜ!!」が10周年。その他にも関西のコンテンポラリーダンスを取り巻く多くの出来事が、ここ10年という期間で芽を吹き、茎を伸ばしている。

このあたりについては、JCDNが発行した「踊りに行くぜ!!10周年記念BOOK」や、ウェブマガジン「dance+」に掲載された上念省三『あえて、この10年または20年』(「うーちゃんとくまさんのダンス談義」より)に詳しい。

さて、淡水という名前の若手カンパニーが上演した『そこ、いいんですか。』という作品は、群舞の魅力において、類まれなる可能性を感じさせるものだった。

カジュアルな、だけども原色や水玉があしらわれた、やや派手めの衣装を身に纏った男性2名、女性3名の若いダンサー達。舞台上は美術セットも何もなく、ただ彼ら彼女らの群像めいた世界が展開する。とはいえ、わかりやすい物語を描くこともなく、抽象的なダンスにすべて還元されている。

彼らの舞台上で生成される動きは、絶えず異分子によって流れに変化を落としつつ進行し、全体のダイナミズムを生んでゆく。舞台空間全体の流動をコントロールしており、退屈を産むような予定調和や制度化に決して堕することのない、怜悧な振付家の視線が徹底していた。

例えば、群れて動いている仲間の中から、ふと1人が外れてしまう。または、群れの中に突如侵入してくる者がいる。そこに新たな動きの極が生まれることで、次の世界(ダンス)が立ち上がってくる。

なにか、水槽で泳ぐメダカ達の群れ行動を観察する実験を思い出す。淡水というカンパニー名は、そのような囲われた社会空間を暗示しているのかもしれない。

プロフィールには「何かしらの間に起こる関係性から生まれる感情をサンプリングして、その関係性を持ったモノ、ヒト、空間が関わりの果てに何処へ行き着き何が起こるのかを見たいが為に、舞台にそれを上げる」と、明確なビジョンが語られている。

コンテンポラリーダンス・シーンのこれから10年は、ある種の進行しつつある制度化、固定化をいかに回避するかにかかっていると思う。彼らのような若いカンパニーが、そうした状況に異分子となって侵入し、流れを変えていく事を期待したいと思った。まるで彼らのダンスのように。

【明倫artレビュー】黄昏れる砂の城 〜サイトウマコトの世界

「黄昏れる砂の城 〜サイトウマコトの世界」
2009年11月7・8日 伊丹アイホール

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年1月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








物語とダンスの幸福な関係

あがた森魚のうた声につつまれるようにして、2組の男女が放つ濃厚な色香。成熟を重ねたダンサーと振付家による、とても贅沢な時間を堪能した。

この作品、『黄昏れる砂の城』は泉鏡花の小説『春昼後刻』に着想を得たものだという。振付のサイトウマコトは、近作においても謡曲を題材にしたコンテンポラリー作品(『FLOWER』)をつくるなど、日本語の持つ存在感を積極的に現代のダンスに取り入れる試みを行っている。

今作では、泉鏡花の文章世界と、あがた森魚のうた世界に、すっと4名のダンサーが入り込む。

なぜ日本語なのだろうか。サイトウの作品を観て感じるのは、物語を纏った身体への愛着だ。コンテンポラリー・ダンスの世界では、ともすれば忌避されがちな物語性だが(筆者自身も、ダンスに対してはムーブメント(動き)至上主義のようなところがある)、そうした視野狭窄に対して、目を見開かせてくれるのがサイトウ作品だ。

それはなにも、ダンサーがセリフを発するわけでもなければ、展開が起承転結を追ってゆくわけでもない。しかし、観客はダンサーの身体から立ち昇る物語に感情を深くゆさぶられる。そこに導くきっかけをつくっているのが、今作では、泉鏡花の文章が作り出した世界観と、あがた森魚が吐き出す言葉なのだ。それらがダンサーの身体に刻印され、観客の脳内に投影される。

ここには、難解だと思われがちなコンテンポラリー・ダンスでは珍しい、ある種の大衆性のようなものを感じる。別の言い方にしてみるなら、サイトウマコトはダンスの振付家には珍しく(と思うがどうだろうか?)結構なロマンチストだということだ。

しかしそれが、ベタベタの小芝居にならないのは、ひとつにはサイトウの持つ幻想・伝奇趣味。つまり、誰も見たことない世界、怖ろしくて人が目を向けようとしない世界への志向がある。

そしてもうひとつ、そうした世界を体現するために必要となる極めて高度な身体技術への信頼がある。ダンスがあればこんな世界を生み出せるのだ、という自負がある。岡田兼宜、関典子、難波瑞枝、ヤザキタケシという4名のダンサーが見事にその期待に応えた。

コンテンポラリー・ダンスが、ある意味で、刹那的な若者文化として流通しているような側面も大きくあるなかで、このような懐の深い作品が上演されることは大いに意味のあることだろう。

大阪阿倍野の小劇場で地道に続けられている「ダンスの時間」シリーズから生まれ、今回が再演だ。さらに再演を重ね、観客の幅を広げていける可能性に満ちている。

【明倫artレビュー】BLUE ROSE Dance Project 『La Revue de Cabaret』


BLUE ROSE Dance Project 『La Revue de Cabaret』
2009年9月5日・6日 一心寺シアター倶楽

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2009年11月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








惹き寄せられる、混じりあい渦巻くところ

ショーキャバレーでダンスを観る。という娯楽は今の日本では、悲しいかな極めて限られた機会しか持ちえない。そもそも、キャバレー小屋がほとんどない。もしかすると、世間からは何かいかがわしいイメージを持たれている可能性もなきにしもあらずだが(それはそれでいいと思うが)、どっこい、ダンスに限らず多種多様な芸術・芸能の猥雑なパワーが混じりあい渦巻くキャバレーの世界は、まだまだ多くの観客を魅了できる可能性を秘めている。その事は、今回取り上げる公演の客席(老いも若きも男も女も)が、なによりも証明していた。

大阪・天王寺の小劇場、一心寺シアター倶楽が1ヶ月という期間に渡って、いつもの劇場をまるまるキャバレーに変身させた。その名もCABARET Le Rouge(キャバレー・ラ・ルージュ)。キャバレーらしく、上演中でも飲食可能、前列にはテーブル席もセットされ本格的な雰囲気。ロビーではカジノだって楽しめる。ここで、期間中さまざまな音楽ライブ、ミュージカル、コメディショーなどが連日上演された。

そのなかで、BLUE ROSE Dance Projectによる『La Revue de Cabaret』と題されたショーを観た。BLUE ROSE Dance Projectは、ショーダンサーとして様々なキャリアを積んだ飯干未奈(いいぼし・みな)が主宰するカンパニーだ。以前には、フェスティバルゲート時代のArt Theater dBで、多くの観客の度肝を抜くショー(まさかあの芸が見られるとは!)を企画演出している。

今回も、自身のカンパニーだけでなく、様々なジャンルのアーティストを迎え、めくるめくショーを繰り広げた。大きな羽毛の羽を持って舞うファンダンス、ひらひらと長く垂れる衣装で舞うサーペンタインダンス、セクシーな衣装を脱ぎ捨ててゆくバーレスクダンス、独特のコミカルさが楽しいインド映画におけるミュージカルダンス、さらにはインド古典舞踊、フラメンコ、タップダンス、そしてジャグリング、ドラァグクイーン、金粉ショーまで。カンパニーの演目では古今東西のレビューショーやオリジナル作品を華やかに舞い踊った。

これが、多種多様な芸術・芸能の猥雑なパワーが混じりあい渦巻くキャバレーの世界。観客は、舞台に踊るパフォーマー達の美しさ、力強さ、潔さに大いに酔わされたことだろう。この気持ちのいい感覚にまた酔いたいと思っただろう。今度は誰か友達を連れてまた来たいと思っただろう。不思議だが、キャバレーショーにはそうしたチカラが強くある。舞台公演を観に行くという文化がなかなか広く根付かない今の日本に、ぜひにもっとキャバレーを、と思うのである。