【明倫artレビュー】捩子ぴじん『モチベーション代行』
捩子ぴじん『モチベーション代行』
2010年11月15-16日 アトリエ劇研
※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2011年1月号に掲載されたものです(INDEXはこちら)
踊らされないパンク・ドキュメント
モチベーションとは、人が行動するにあたっての、その元にある動機や意欲のことだ。例えば、人はなぜ服を着るのか。寒さをしのぎ、命を守るためであり、また、素っ裸で出歩いて犯罪者になってしまわないように、みな服を着る。…というようなことは、誰しも意識をすることなく行っているに違いない。
しかし、改めてそうしたものを意識してみること。また、意識せざるを得ない境遇に自らを置くこと。さらには、そうした意識の迷宮に彷徨う自分を場にさらすこと。捩子ぴじん『モチベーション代行』が浮かび上がらせる風景は、鋭い社会風刺でありながら、また、痛切な自己批評を含んだ、現代のドキュメントだ。
素っ裸で現れた男2人(捩子、井手実)は、まず互いの自己紹介をそれぞれ代行して行う。マイクを握り淡々としゃべる。アーティストとしての活動や、コンビニバイトで生計を立てていることなどが紹介される。
紹介を終えると、相手に対して指示を出し合う。マイクのケーブルを端によけるなどのタスクから始まり、果ては、フライドチキンの美味しさを地面を通して観客に伝える、などのタスクになる。
そこには、客席から突拍子もなく現れた捩子のバイト先の同僚ワダさんも加わる。奇妙な状況だ。あげくに傍らでは、ずっとチキンを揚げ続けるマシーン(コンビニにあるアレだ)。出来上がると、ウィーンと自動で油から上がってくる。次の冷凍チキンを放り込むというタスクだけは、誰からも指示されることなく終始繰り返している捩子の姿がなんとも滑稽だ。
印象的だったのは、捩子が井手に対して出した「ワダさんに分かるように、自らの作品のことを説明してください」というタスクだ。実験的な作風のあれこれを、懸命に説明するが一向に伝わらないさまは、この場に居合わせている観客なら誰しもが「あるある」と思わずにはいられないだろう。
なぜ作品をつくるのか。なぜ観客は作品を観るのか。観ない人はなぜ観ないのか。それは必要とされているのかいないのか。そこにあるモチベーションは何か。もしかしたら、そのモチベーションは偽物ではないか。本物のモチベーションはどこにあるのか。
浮かび上がってくるのは、自発と強制のあいだに宙吊りとなった、曖昧で不安定な私たちの身体の有様だ。それは第一に、踊る身体に対する実直な批評であり、と同時に現代社会を写すカリカチュアでもある。
あなたのその行動は、自ら踊っているか、それともただ踊らされているだけか。
この問いの秘めた過激さを、踊り手である捩子自身のセルフドキュメントを通して描き出す。そのパンクな精神にぶん殴られて目が覚める。畏るべき、かつ親しみの持てる作品だった。