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2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


【明倫artレビュー】黄昏れる砂の城 〜サイトウマコトの世界

「黄昏れる砂の城 〜サイトウマコトの世界」
2009年11月7・8日 伊丹アイホール

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年1月号に掲載されたものです(INDEXはこちら








物語とダンスの幸福な関係

あがた森魚のうた声につつまれるようにして、2組の男女が放つ濃厚な色香。成熟を重ねたダンサーと振付家による、とても贅沢な時間を堪能した。

この作品、『黄昏れる砂の城』は泉鏡花の小説『春昼後刻』に着想を得たものだという。振付のサイトウマコトは、近作においても謡曲を題材にしたコンテンポラリー作品(『FLOWER』)をつくるなど、日本語の持つ存在感を積極的に現代のダンスに取り入れる試みを行っている。

今作では、泉鏡花の文章世界と、あがた森魚のうた世界に、すっと4名のダンサーが入り込む。

なぜ日本語なのだろうか。サイトウの作品を観て感じるのは、物語を纏った身体への愛着だ。コンテンポラリー・ダンスの世界では、ともすれば忌避されがちな物語性だが(筆者自身も、ダンスに対してはムーブメント(動き)至上主義のようなところがある)、そうした視野狭窄に対して、目を見開かせてくれるのがサイトウ作品だ。

それはなにも、ダンサーがセリフを発するわけでもなければ、展開が起承転結を追ってゆくわけでもない。しかし、観客はダンサーの身体から立ち昇る物語に感情を深くゆさぶられる。そこに導くきっかけをつくっているのが、今作では、泉鏡花の文章が作り出した世界観と、あがた森魚が吐き出す言葉なのだ。それらがダンサーの身体に刻印され、観客の脳内に投影される。

ここには、難解だと思われがちなコンテンポラリー・ダンスでは珍しい、ある種の大衆性のようなものを感じる。別の言い方にしてみるなら、サイトウマコトはダンスの振付家には珍しく(と思うがどうだろうか?)結構なロマンチストだということだ。

しかしそれが、ベタベタの小芝居にならないのは、ひとつにはサイトウの持つ幻想・伝奇趣味。つまり、誰も見たことない世界、怖ろしくて人が目を向けようとしない世界への志向がある。

そしてもうひとつ、そうした世界を体現するために必要となる極めて高度な身体技術への信頼がある。ダンスがあればこんな世界を生み出せるのだ、という自負がある。岡田兼宜、関典子、難波瑞枝、ヤザキタケシという4名のダンサーが見事にその期待に応えた。

コンテンポラリー・ダンスが、ある意味で、刹那的な若者文化として流通しているような側面も大きくあるなかで、このような懐の深い作品が上演されることは大いに意味のあることだろう。

大阪阿倍野の小劇場で地道に続けられている「ダンスの時間」シリーズから生まれ、今回が再演だ。さらに再演を重ね、観客の幅を広げていける可能性に満ちている。