▼このブログについて(更新停止中)
2004〜2009年夏頃までの関西のコンテンポラリーダンス公演をメインとした目撃録です。その時期に関西であったコンテンポラリーダンス公演の8割方は観てると思います。その他、民俗芸能、ストリップ、和太鼓、プロレスなども。2000年の維新派『流星』から見始めて、多い年は年間270本。2007年は、エジンバラフェスティバル、ダンスアンブレラなど半年に渡る欧州漫遊の記。2010年以降もぼちぼち劇場には出かけていますが、更新する時間はなくなり現在放置中のブログです。


【明倫artレビュー】Monochrome Circus + じゅんじゅんSCIENCE「D_E_S_K」


Monochrome Circus + じゅんじゅんSCIENCE「D_E_S_K」
2009年7月12日 アトリエ劇研

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2009年9月号に掲載されたものです(INDEXはこちら




文系の思想、理系の魔法

ふと、「デスク」と「テーブル」の境目に迷い込んで、はて?これははたしてデスクか、はたまたテーブルか…?と思念することしばし。結果、これはデスクとテーブルのミクスチャーとしか言いようがないという結論に達した。というのは、我が家のそれについてである。

勉強や仕事をするのがデスクで、ごはんを食べるのがテーブル、という理解だ。となると両方が雑然と乗っかっている我が家のそれは、一体なんと呼ぼう。1枚の板の四隅から4本の足が伸びるその構造物の、なんとも曖昧な存在。まるでエアポケットのように、世界を覆う言葉の呪縛からぽっかりと逃れている。してみれば、そこでダンスを踊ってみてはどうだろう。きっと新しい何かが見えてくるはず。

京都を拠点に全国で精力的に活動するモノクロームサーカスと、マイムテクニックをベースとしたパフォーマンスカンパニー「水と油」を活動休止中のじゅんじゅんがコラボレーションを行った。

「D_E_S_K」と銘打たれた企画で、上演された4つの作品すべてにあのデスクだかテーブルだか、ともかく1枚の板の四隅から4本の足が伸びるあの構造物が登場する(長いので以後は便宜的に「机」と表記する)。

上演作はモノクロームサーカスのレパートリーから『水の家』と『きざはし』(どちらかの日替わり上演)。そして、じゅんじゅんのソロ作品『deskwork』。さらに、じゅんじゅんの振り付けでモノクロームサーカスのメンバーらが踊る『緑のテーブル』(舞台美術にgraf、音楽に山中透)と充実の内容。

興味深かったのは、同じ机を使うにしても坂本公成モノクロームサーカス主宰・振付)とじゅんじゅんとでは使い方がまったく違うということ。ひとことで言うなら、坂本は文系的、じゅんじゅんは理系的、となる。

文系的な坂本の机には、言うなれば枯山水茶の湯など多くの日本文化の基層に流れる「見立て」の思想が宿っている。一方、理系的なじゅんじゅんの机には、例えばエッシャーの騙し絵のような「視覚トリック」の世界を現出させる魔法が宿っている。

そして、それぞれを宿らせる役割を果たすのがダンサーの身体である、という点は両者共通するところだ。ダンサーが動くことで、目の前にある机が、なにか別のものとして浮かび上がってきたり、一瞬にして見えている世界をシフトさせたりする。

もはやデスクとかテーブルとか、そうした次元を超えて観客の脳内はゆさぶられる。この快感は、他に替えがたい舞台芸術の魅力のひとつだ。誰にでも身近な机という媒介によって、幅広い観客層に受け入れられる作品群になっている。再演の機会も期待したい。

【明倫artレビュー】「走る!踊る!五月のダンストレイン・B1スケッチ日和」


「走る!踊る!五月のダンストレイン・B1スケッチ日和」
2009年5月10日 京阪電車貸切列車内・アートエリアB1

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2009年7月号に掲載されたものです(INDEXはこちら


通り過ぎゆくものに目を凝らして

目の前を通過してゆく列車がある。普段なら気にも留めない光景のはずが、ふと、横切る車窓のなかに見えた・・・、それは、まるで亡者のような白塗り女であったかもしれないし、はたまた変質者めいた真っ赤な男達であったかもしれない。いずれにしろ、その日いつもの列車は、ひとときの異世界を運んで皆の日常の中を横切った。

2009年5月10日、京阪枚方市駅から中之島線なにわ橋駅の間を走った「ダンストレイン」に乗車した。枚方市駅に集まった乗客は5つのグループに分けられ、それぞれの車両へと乗り込む。5両編成の列車をまるまる貸切っての運行だ。

京阪電気鉄道株式会社とNPO法人ダンスボックスによるアートプロジェクトは、まだ中ノ島線が工事中の頃から継続的に行われてきた。このダンストレインは、そうした積み重ねが生んだ企画と言えるだろう。まさか、明日にはまた通勤客を運ぶであろう車両に白塗りの舞踏家が舞い降りるとは!

定刻、当イベントの企画者でもある竹ち代車掌による車内アナウンスとともにゆっくりと列車は動きだす。5組のアーティストが、まずは5つの車両を行進して開幕の挨拶。連結部を抜けて現れる百鬼夜行のごとき隊列にゾクゾクする。今貂子、セレノグラフィカ、花沙、村上和司(率いるREDさん達)、安川昌子の5組。さらに音楽隊として下村陽子(うた)、ワタンベ(パーカッション)、宮田あずみ(アコーディオン)の3人。

すぐに、それぞれの車両に分かれて、パフォーマンスが繰り広げられた。最初、1車両に1組ずつに散らばった面々は、除々に互いの車両に侵入をしはじめ、狭い車内でひととき交錯しては行き過ぎてゆく。乗客は長い車両を行き交う様々な出来事の、その一部分を目撃することになる。すべては見えないというところが面白い。

そして、事前に乗客には参加パスとして、四角く窓が切り抜かれた厚紙を手渡されている。実は第二部として、スケッチ大会が行われたのだ。そのための一助として、あえて世界を切り取るフレームを乗客は持つ。見ることを意識化させる仕掛けがここにも。

25分ほどでなにわ橋駅に到着し、列車を降りた乗客は、駅に併設のアートエリアB1で、思い思いに今日見た光景を画用紙に表現する。はいどうぞ、と一様に差し出されたものではなく、ひとりひとりが切り取った世界の断片が鮮やかによみがえってくる。普段なら気にも留めないような人間の身体に、ふと通り過ぎてゆく何かを発見する。列車という舞台装置が、思いのほかコンテンポラリーダンスを見る楽しみを増幅させてくれたことに驚いた。

【明倫artレビュー】セレノグラフィカ『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』


セレノグラフィカ『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』
2009年3月14・15日 毎日新聞社京都支局7階ホール

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2009年5月号に掲載されたものです(INDEXはこちら





つかみどころのなさから生まれること

土曜日の昼下がり、東山の山並みを借景に、ひとときダンスに身をゆだねる。セレノグラフィカによる『百ねずみ 九十九かみ 百一み 〜10099101〜』を観た。肩ひじ張らないやわらかな雰囲気が魅力的な公演だった。

京都御所のほど近く、毎日新聞社京都支局の上階にある小さなホールが会場となった。舞台ファンにはアートコンプレックス1928が入っている旧支局が有名だろう。ニクいことに現支局にも、いかにも見覚えのあるようなアーチ状の天井を頂くホールが設けられている。東山を望む一面がガラス張りという開放的なスペースだ。客席が周りを取り囲み、落語の高座のような小さな舞台がポツンと置かれている。そして、バスローブ姿で出てきた隅地茉歩がその舞台に腰掛けて・・・。

先ほど書いた作品タイトルは、それぞれ「ひゃくねずみ」、「つくもかみ」、「ももいちみ」と読む。それら、ひとつひとつの短編作が「毎日がダンス!」というフレーズのもとに集ったのが今回の公演だ。なにか特別な舞台装置や演出があるわけではない。分かりやすいストーリーがあるわけでもない。はっきりと、つかみどころはない、と言える舞台。しかしそのつかみどころのなさこそが、非日常のスペクタクルではない、私たちの日常と地続きにあるダンスとしてとてもしっくりくる。

さて、小さな舞台に腰掛けた隅地はといえば、おもむろにバスローブを脱ぎ捨てて、なんと水着姿。これはつかみようがない。正直目のやり場にも困る。追って出てきた阿比留修一は、こちらは鮮やかなニッカボッカ姿で新聞を読んでいる。毎日新聞かと思ったらそうでもない。これもつかめない。飄々と、そんなふうにして、綴られる時間。

つかめないものをつかもうとする時、人はなんとかそれをつかもうと、またはそれがすり抜けてゆく感覚に身をゆだねようと、あれこれ工夫を凝らそうとする。どのような形でそれをつかむか、すり抜けさせるかは、人それぞれだ。

向こう側に座った観客の反応を見ているととても面白い。必死に笑いをこらえようとするもの。こらえきれず吹き出しているもの。あくまで真面目に鑑賞するもの。ポカンと口を開けて見ているもの。転換時には、わざわざ観客席の席替えが行われた。色々な人の反応を目撃できるようにというたくらみではなかったか。

彼らのダンスを観る観客は、決して目の前の出来事に対して一様に踊らされてはいない。100人いたら100通りの解釈(ダンス)が生まれる。そうした可能性を限りなくひらいてゆくことから「毎日がダンス!」と言える世界が立ち現れてくるのだ。

【明倫artレビュー】AAPA『outskirts』


AAPA『outskirts』
2010年9月2日 Art Theater dB 神戸

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年10月号に掲載されたものです(INDEXはこちら







境界を踊る、世界を跨ぐ

何かが起こりそうな緊迫感。そこにある日常。互いがじりじりと侵食し合う時間。滲んでゆく境界。

AAPA(アアパ)が上演した『outskirts』(アウトスカーツ=街外れ、郊外の意)は、隔たれた空間が、だけどもどこかで隣接し、そして融解してゆく、そのあわいを写し取った舞台作品だった。

隔たれた空間とは、例えば都市と自然であり、部屋と外であり、自分と他者である。そこにある隔たりは、綺麗な一線を境に分かたれるものではなく、薄いグラデーションを描いて混じり合っている。そのマージナルな領域は、2つの世界がぶつかる痛みをやわらげるためのバリア(緩衝材)である。この作品では、向こうの世界へと踏み出すひとつのプロセスが描かれる。

劇場に入ると、フロアは白いラインで4つの部屋に区切られている。俯瞰して見ると、交差する道路が街区を区切っているようにも見える。奥の部屋では、机のうえの家庭用プリンターが動作音を響かせて動き始める。コーヒーメーカーが豆を挽き、フライパンのポップコーンが弾ける。そうした生活音をその場でサンプリングした音が、ひたすら繰り返される。

4名の女性ダンサーはそれぞれの部屋で、それぞれの日常を送る。何気のない仕草が延々と続く。ひとりの男性(主宰の上本竜平)も終始その場にいるが、黙々とおもちゃの電車を走らせたりしているだけで、圧倒的に外部と絶たれた存在としてそこに在る。

事態に変化が訪れるのは、女性達が身につけている服をそれぞれ脱いで、お互いに着まわしてゆくシーンに入ってからだ。ひと通りの衣服に袖を通した彼女らは、そうして境界線の向こうへと飛び出してゆく。それまで劇場のフロアで展開していたパフォーマンスが、ステージ上へと移る。

衣服というもっとも身近な境界(バリア)を交換する経験を経ることで、彼女らが世界を跨ぐ契機となる。境界を認識することで、揺らぐことのない場所(自らの身体)の確かさを確認する。そうして、新しい世界への扉を開ける。隔たれた空間が、舞台上で繋がってゆく瞬間だ。

欲を言うなら、踊るという行為自体に対しても、そうした境界性(古来、踊ることは「ハレ」と「ケ」という2つの世界を接続する媒体だった)をより色濃く反映できればと感じた。そこに踊りがあることに強い説得力が欲しい。高い能力を備えたダンサーが揃っているだけに、なおさらそう思う。

彼らはまた、活動を通して、日常と舞台空間の間にある境界にも観客の意識を向けさせ、新しい関係を模索する試みを継続している。リニューアルした「踊りに行くぜ!!」にも選出されており、今後彼らが生み出すダンスの場に、大いに期待を持ちたい。

【明倫artレビュー】イ・ソンア『Waves』





イ・ソンア『Waves
KOBE‐Asia Contemporary Dance Festival #1
Dance Circus ASIA編 Solo Collective より
2010年1月24・25日 Art Theter dB 神戸

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年3月号に掲載されたものです(INDEXはこちら


寄せては返す、この波の向こうで

「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、私たちは「外」に目をやることによってはじめて、「内」というものを理解することができる。「内」だけにいつまでも閉じこもっていれば、いずれは腐敗してしまうだろう。だから、何においても「外」へとひらかれていることが大事ということ。

さて、日本のコンテンポラリー・ダンスにおいては、そもそも欧米から輸入した文化であることから、欧米は「内」か「外」かで言うなら「内」である。なので、いつまでも欧米中心にこのシーンを捉えていると、気付かぬ間に空気は停滞してしまい、そのうちどこからか腐臭が漂ってきてもおかしくない。

そんなところに、爽やかなアジアの風を送り込み、「外」へと目を見ひらかせてくれるのが、今回取り上げる「KOBE‐Asia Contemporary Dance Festival #1」だ。アジア各国のコンテンポラリー・ダンスの「今」が神戸・新長田に集まった。

4つあるプログラムのうち、国内外8組のダンサー・振付家が出演した「Dance Circus ASIA編 Solo Collective」を観た。日本勢以外ではフィリピン、韓国、マレーシアからの参加だ。

最も印象的だったのが韓国のイ・ソンア『Waves』。舞台中央でうつ伏せに寝そべっている女性。肘を付き、上体は反り起こしているが、頭は垂れ、ふんわりした髪の毛だけが見える。そして肘から先、特に手指が、しなやかに、なまめかしく揺らめく。時にスピードを増し、その指が髪へとかかる。ふわっと髪が波打つ。すると、その波間からキラキラと銀粉が舞い上がる。

照明はひとすじのスポットが射されるのみ。音楽はアグレッシブなエレクトロニカ

髪に指が触れるたび、キラキラした空間がふんわりと広がってゆく。そうして、手指だけからだんだんと他の部位まで動きが伝播してゆく。その蠱惑的な動きと形の連鎖は、いったい何を見ているのか分からなくなるほどに新鮮だ。

人がダンスしている、というものではなくて、なにか別の生き物であったり(例えば花と蝶の戯れ)、はたまた非生物による動き(例えば万華鏡)を見ているように思える。

ああ、この人の「我が振り」は、もはや「人の振り」など見ておらず、もっと「外」の何かへとひらかれているのだろうなと思った。作品タイトルは「Wave(波)」に複数形の「s」となっている。寄せては返す波の動きのひとつひとつに、ダンスの無限の可能性を託しているかのようだ。

この海の向こうで一体何が起こっているのか、気になってくるではないか。

【明倫artレビュー】ボヴェ太郎『消息の風景 −能《杜若》−』


ボヴェ太郎舞踊公演
『消息の風景 −能《杜若》−』
2010年7月2・3日 伊丹アイホール

※このレビューは京都芸術センター通信「明倫art」 2010年8月号に掲載されたものです(INDEXはこちら






舞踊がつなぐ二つの世界

触れれば怪我をしそうなほど極限まで張りつめた空間にありながら、一方で深い深い海の底で悠久のまどろみにたゆたうようでもある。

ボヴェ太郎の新作は、能楽とのスリリングな呼応から、二つの感性を繋ぐ身体と空間を導きだす意欲的な試みとなった。

劇場に入ると、三方に客席。そして中央には漆黒の闇がポッカリと口を開けており、そこに板敷きの四角い舞台が浮かぶ。客席がない向こう側には、囃子方地謡が座する台が設えられている。

誰もいない空間に、まず鋭い笛、そして鼓の音がどこからか聴こえてくる。一気にこの空間に古典の風合いがもたらされる。そうして囃子方地謡の面々が美しい所作を伴って演台にあがる。曲が始まるが、10分ほどだろうか、しばらくボヴェの姿のないまま能楽囃子と地謡の紡ぎ出す世界に引き込まれる。

ボヴェは、静かにすべるように歩んできた。中央に浮かぶ舞台にのる前に、ゆっくりと空間と自分とを馴染ませるように客席の前を歩んでゆく。ただそれだけでも、ゾッとするほどに美しい。

衣装は黒の上下。タイトなロングスリーブのトップスに、袴のようなドレープの刻まれたボトムス。とてもスマートなシルエットで、背筋を伸ばし悠然と歩を進める。欧州人の血を受け継いだ姿形も相まって、思わず祈り捧げたくなるような空間が現れる。

闇を渡り、光の注ぐ舞台に達すると、空間の密度が一気に高まる。囃子と謡に感応して、静かに流れ続けるボヴェの動き。とはいえ、鼓や笛の音色はとても鋭く、時に攻撃的でさえある。謡も空間をやさしく包むようなものではなく、野太く低音で空間をねじり上げるような趣がある。

ボヴェの舞踊は、そのエネルギーをささやかに取り込んでは、空間の広がりへと変換していくように見えた。その空間は、上へ上へと伸びる。彼は、天に伸びる空間を見事に支える。

私はどんどんと深みに降りてゆく感覚を覚える。時間の流れがだんだんと緩慢に感じられてゆく…。

このような縦の空間性に、彼の舞踊の特質があるように思えてならない。

それは屋内であっても、舞台にわざわざ柱を建て屋根を設える能楽の空間とは異質なものだ。相応しいのは、例えば、ヨーロッパの教会建築が見せるような天への憧憬だろう。

直線的に飛んでくる鼓や笛の音色、地を這うような謡も彼の舞踊とは相容れにくいものだ。そのような「籠める音」よりも、教会のパイプオルガンのような「浴びる音」との親和性が高いだろう。

そうしたなかで敢えて能楽との融合を試み、どちらに寄るでもない空間をつくりあげた。日本とヨーロッパ、それぞれの深層に息づく感性が舞踊を通して接続した稀有なひとときだったように思う。

寄稿アーカイブ

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■ 京都芸術センター通信「明倫art」

京都芸術センターが発行する広報誌「明倫art」に掲載されたダンスレビューです。(随時UP中)